人生は編集だ

好きなことで生きるを体感する。読書ログ。心のことが大好き。

考えすぎたら社会的じゃなくなるんだけどこれは

前提を変えることが大事だと、自己啓発本などではよく語られる。

例えば、穴の空いた袋。

自分を満たそうとして、社会的地位や優れたモノや成果を詰め込んでも、基本的な自己肯定感というベースがないと、ポロポロ落ちて何も残らない。

「自分はダメなやつだから頑張らないと」前提で生きていると、全力で頑張ってはじめて及第点が自分に出せることになり、非常に辛い。-100点から始まるわけだから、100点取るだけの努力をしても、そこでやっと0点というスタート地点に立てるわけだ。

これは、技術的ではなく精神的な話で、どれだけ出来る人でも適切な自己評価を自分に与えていなかったら、生きているのがしんどいばかりだろうということ。

自己啓発本や心理学の界隈でよく聞く。

 

私も長らく穴の空いた袋だった。

なぜか、自分がつまらないことを非常にコンプレックスに思っていた。昔、友人に、一緒にいてもつまらないなどと言われたショックもあるかと思う。

「自分はつまらんやつだから、全力で会話の相手に尽くすのが義務だ」と思い込んだ。

その前提で人と関わるのは、それはそれは苦痛だった。

自分はつまらないから積極的に話すのを避け、相手の話をうまく促す聞き方を磨いた。

それゆえに、人から聞き上手と言われるようにはなった。ただ、自分の話術は身に付かず、プレゼンの瞬発力みたいなものが欠けてるけど。

しかし、そうして生きているのが辛くて救いを求め(義務教育の場で人と関わらないのは社会的に死ぬという感覚だった。しかし、人と関わるのは苦痛だった。要は毎日苦痛)、家にあった自己啓発、カウンセリング本のたぐいを読み漁って、「私は穴が開いている麻袋」と気付いた。

そこからまぁ自分を説得しようとし、反発を受けてより辛くなり、表面上のポジティブワードで疲弊して投げ出したくなったり、を繰り返し、10年程経った今では、基本的自己肯定感の存在をなんとなく感じれるようにまでなった。

例えば、以前は話したい人と話すのも躊躇っていた。けど今は、人に話し掛けるとき「つまらない自分なんか」がとよぎることはあるものの、

「そんな自分なんだからしょうがない。つまらないと思われてもしょうがない。まぁ、私は実際大して面白くないけど、とはいえ面白いと言ってもらえる部分もあるし、その凸凹な自分のままでいいじゃないか」

という安心感を自分に思い出させることで、ふっと楽になることができる。

(文字にするとよくある言葉だけど、これを染み込ませるのにどれだけかかったか。今、自分で感動している。)

 

しかし、この「自分との対話」をしていると、心が空っぽになってしまうことに悩んでいる。

例えば、一昨日の夜、お酒の飲み過ぎで眠れず、ちょうどいいから自分の肯定感を上げる言葉を唱えようと思った。早い話が自己暗示。

しかしこれも失敗したことがあるが、「私は人とうまくやっていける」等という言葉だと、むしろ人とうまくやらなきゃと不安感が高まり、ますます人間関係への自信が持てなくなることがある。なので、ポイントは行動ではなく前提の肯定であり、「私はいるだけで爆笑の渦を巻き起こす」とか、アホみたいな言葉をチョイスするとよい。別に渦を巻き起こさなくてもいいのだ。そのくらいの言葉だと、自分は大してつまらんくもないかもしれんし、そもそもその価値基準にもそう拘らなくてもいいかもなぁ、と素朴な安心感が生まれてくるのだ。

 脱線したが、そういった言葉を心の中で唱えつつ、いい気分にもなった。しかし、その翌日、久しぶりにたくさんの人と会ったのだが、はたとどう話せばいいか分からない状態になっていることに気付いた。

おそらく、会話における自信がなくなっていた。話したいことは、「いま何か漠然と不安なんだよね」であり、いつものように話したいことが湧いてくる訳でもない。普段より「私なんかと話させてごめんね」という不安が出てくるし、飲み会もあまり喋れず、非常に空しく帰った。こんなのはかなり久しぶりだった。

 

振り返ってみると、少し考えすぎてしまったのだとも思う。また、前提を変える前の一時的なぶり返しかもしれない。

けれど、自分の中の前提って、ちゃんと考えて深掘りしてあげないと、いつまで経っても変わらないと思う。もっといえば、私はこういう状態になるのを恐れて、日頃からあまり下手に考えすぎないようにしている気もする。それは良いことではない。

だから、私は困ってしまった。思考と感覚の距離感がいまだにうまく掴めないのだ。昔はこんなどうでもいいことで疲弊してる自分に心底うんざりし、他人を羨んだけど、いったい他の人はそういうことは起こらないんだろうか。疑問だ。

しかし結局、文字にしてみると、アファメーションに失敗しただけとも思えてきた。結局不安感を煽ってしまったのか。どこかで必死になってたのかもしれない。

 

この自分との対話に費やした時間は人より長いと思うし、自分の心で自己肯定感を培ってきたということへの自信もある。

けれど、それは目に見える成果として現れさせてあげられず、就活の時にすごく悩んだし困った。

そもそも何かを頑張る以前の、自分の心を鍛えてきたつもりなんです。それは、他の人より脆く出来ていたんですが、自分のたゆまぬ努力で、一般並みの肯定感を培うことが出来たように思います。これからその下地のもとで、何にでもチャレンジし続けたいです。

そんな気分だったんだけど、就活は闇の思い出しかない。社会では必要とされてなかったのかもしれない。自分としては役に立たないっていう意識はまるでなくて、自分と向き合える人間が最強でしょうって思ってたから、あまりにもうまく行かないことに何度も絶望した。けれど、今思えば喋りが下手でバカっぽく見えてたのかもしれないし、見た目もパッとしないからとりあえず取っとこうとはならないし、中途半端な動機と成果しかなかったから、まぁしょうがなかったんだろう。渦中にいると消えたくなるけど。

 

脱線したけど、まぁ、人とうまくいかない不安状態に久しぶりになったから、うんざりして書いてしまった。

何でこんな繊細に出来てしまったんだ私の心、納得してるけどちょっとしきれない。すごい損してる気がするもん。

けれど、時間が経てば持ち直してくることも知ってるから、考えすぎずに意識のうわべを漂流するしかない。考えすぎると自分責めやすいし、ろくなことない。

とりあえず人と会うために、シャワー浴びてくるかな。