人生は編集だ

好きなことで生きるを体感する。読書ログ。心のことが大好き。

今更っていわれるだろうけど新しい夢が出来た!

昨日はわくわくして眠れなかった。

今朝も早起きしてしまった。

日中の仕事は眠いことだろう。

 

でも、夢が出来たのです。

もっと言うと、「なったらいいな、でもまぁ無理だろうな」を

「夢にしてみるか!」と思い始めたのです。

 

私、人の話を聞く仕事がしたいです。

人にインタビューをしてみたい。

その人の中でも形作られていなかった漠然としたモヤの部分を

エッジの効いた質問をして捉えてみたい。

カチリとピースをはめて、自分も相手も快感を得たい。

色んな全く知らない世界の人と出会って、

全体の雰囲気と、核心の価値観の両方を知りたい。

(昔の夢はカウンセラーだったけど、

「治したい」より「知りたい」なように思えてきたのです)

 

あと、デザインの仕事もしてみたい。

昔から絵を描くのが好きで、小中の休み時間は自由帳が友達で、

家ではスケッチブックが友達だった。

その頃はずっと、将来はイラストレーターになると思っていた。

イラストを描いていると今もすごくワクワクするし

写真とか文字とか絵を足し引きして、ノートを作り上げていくのも快感だ。

 

私が快感を得られるのは、そんなところだ。

じゃあどうする、という具体的なプランは出来ていないし

人に相談すると「今からじゃ遅いよ」と言われる可能性もある。

 

ただ、私はワクワクしている。

だってまだ、23歳だ。

人生60年ではなく100年計画、職は3回変える見込みで、

ってリンダ・グラットンも書いてたし。

 

とりあえずの計画としては、

 

1、今の職場で「編集」的な目を持ちつつ仕事を行う

入社1年も経っていなくて、今の仕事も半人前

まだこの職場で学べることはたくさんあると思うから、

日々頭を使って全力で学ぶ

 

2、求人情報をみて、求めるキャリアに合致しそうな経験を積む

広報経験とか編集経験とか、今の職場で出来そうならやってみるし、

無理そうなら外部でやってみる

今の時代、やり方はいくらでもある

 

3、日々ブログを書く

「書く」ことを仕事にしたいなら、まずは基礎体力

本当に向いているのか分かるだろうし

誰かの目に留まるかもしれない

でも、質に捉われすぎず、最初は量で

校正もしなくていいから、はじめは書く習慣づけ

 

4、編集について知る

仕事をしてみて分かったのは、

ひとくちに○○業といっても、相当な役割分担がされているということ

例えば、ひとくちにものづくりといっても

企画、営業、設計、施工、アフターサービスみたいな工程があって

規模が大きくなれば、それぞれプロがいて、会社も違う

そこで、まずは私が何にいちばんときめくか、見つけることだ

 

今は「編集ってカッコいいな」でしかない

就活生の時にインターンなんかして実態を知っておくべきだったと思うが

そこを振り返っても仕方がない

見ていた進路が違ったんだもの

(ああ、一年前の私はその新卒切符を使えたのだな!)

むしろ、異業種で働く私だから出来ることがあるはずだ

 

たとえ、「仕事」にできなかったとしても

「編集」的に生きることは出来ると思う

(抽象的な思考を具体化する練習も必要だな。

この具体例はまだ思いつかないです)

 

とにかく、ワクワクすることを見つけられたのが、

私にとってはとっても大事で

私の人生は私の歩みで進めていい権利があるので

それをたっぷり行使して生きていけることに気づいて

とても嬉しいのです

 

とりあえず会社に行くよ

ハンドルネームも決めなきゃね

失恋ってやっぱ痛い

6日前に3年半付き合った彼氏に振られた。

ふられた直後は元気だった。

すぐさまうちから徒歩30分のジムの体験予約をした。

昔読んでた恋愛ブログの失恋記事を読み漁った。

(ゴマぶっことか、恋愛部長とか)

小町も読んだ(検索にむっちゃ引っかかるしね)

「時間が解決してくれます」

「これをきっかけに綺麗に、自分の人生を考え直して、英語勉強して海外に、そこで旦那さん見つけて、ブラブラブラ・・・」

前向きになれてる私すごいと思った

自分実際めっちゃかわいいし(そう思うことにした)、

この別れはより良い人と出会うためだし

この世には縁があるし

いまは仕事とか自分の人生考え直せってことかなって

資格もとるぞ、英会話もするぞ、早起き、ダイエット、仕事

綺麗になる、足を細く

この機会に変われなきゃずっと変われない

あれ、なんで寝坊してるのわたし

早起きできてないじゃん、むしろ遅刻ギリギリで

仕事がんばれなかったな、あーあ、

なんだいつもみたいに夕ご飯ダラダラたべて食べ過ぎた

あーあ、、、

ってなもんが溜まってか

クッキーひと箱食べたからか(ロータス大好き)

生理前だからか(ストレスからか遅れてる)

風呂が大嫌いなんだけど、昔から

入るのが怖いし、お湯勿体ないし、脱いで着てって寒いし非合理的だし・・・

でも明日も仕事だし風呂入んなきゃって思ったときに

なんかスゴイ全部嫌になった

あぁもうやめたい

全部やめたいって思った

もう何もしたくない

私はなんでいきなりふられて傷を負ってるのに

必死で努力して今の私をどうにかしなきゃならんのか

わかるよ 直すべきところはたぶんあったよ わかるよ

でもそれいまじゃない

今の私、生きてるだけで割と頑張ってるんだなって

思った以上に自分が普段通りだったから勘違いしていた

 

「風呂入りたくない」「うつ」って調べたら

自分を嫌いになったのが鬱の原因

自分を好きになるのが鬱の治療

ってな(要約)文を見て

うなずいた

 

わたしなんてえらいの、あんな理不尽クソボケ男なんて

どうでもいいから

健気な私、可愛い私、どんどん癒されて幸せになってね

 

わたしなんてだめだな、あの人がふるのもわかる

なんにもつづかないかわいくないわたし、なにやってもだめね

 

うっ、書いてて目をそらしたくなるな、下の文

前者が「自分を好きな人」後者が「自分を嫌いな人」

前者は「ナルシストで自分好きなちょっと気持ち悪い女」かも

後者は「落ち込んでて自信がない人」

でもね、きっとよくいる度でいったら、後者の方が高い

さらに、前者がいたらバカにされそうだけど、後者的発言は慰められる

でも、社会がそう対応してくれても、個人が病んでしまうくらいなら

全力で自分を褒めないと

 

だからわたしめっちゃ自分かわいいって思うよ

どっかの限りなく素敵なだれかが私とそのうち出会うって思うよ

本当はぼろぼろの私を時間とともにゆっくり癒すことを許可するよ

 

悲しいなかなしいな悲しいなぁ…

本当に癒される日が来るのか分からない

現実を信じられない

 

今は現実から数メートル浮いたような場所で

はっきりと目を凝らさないで過ごす

えらいぞ 私

就活について

後輩と話したら、情けなくなりました。

やっぱ大手のがいいよ、実際、中小ですごいやりたいことがない限り。

お金があると、心の余裕ができるし

豊かさに手を伸ばして投資できるよ。

向上心のある人が、やっぱり比較的多いと思うし

その分だけ刺激を受けて 自分も頑張れる。

人間性は仕事のできとは別だけど

でも仕事を頑張りたいのなら

どうあっても仕事出来る人が多い環境の方がずっといい。

社会的評価も、気になんない人はいいけどね

やっぱ福利厚生も全然違うよ。

住宅補助もらえるかで、給与の意味相も変わってくるし

住む場所が違えば、生活も違う

空気悪い安い町に住むより、

ある程度のものが小綺麗にまとめられて

人工的であっても緑が溢れる町のほうが

精神衛生上いいものだ

毎日のことだからね

 

わたしはひとまず資格を取って

しんだ自己肯定感をある程度回復する

こうやって自己肯定感あげるのは

違うと思うよ

そのままの自分を認めた方がいいよ

でも、半分はそうわかってるけど

とはいえっていってる自分もいて

いま、なにか頑張ってるって言えないんだもの

なにも頑張ってないのがかっこわるいんだもの

…って思っちゃう

これも壁なのか、わたしの

あーでも、もがき苦しむから到達する場所があるはずだ

 

人生をちゃんと考えたら、ごはんが旨くなった

私、今のままでも、何となく幸せだなぁと感じる時間が割とあります。

例えば今週でいうならば、

模様替えの衝動に突き動かされて、部屋をぐちゃぐちゃにしながら、ガンガン家具を押しているとき、

模様替えが予想以上にしっくり来て、椅子で一息ついているとき、

近くの町の商店街を散歩して、素朴で素敵なコーヒー屋さんでふうと息をついたとき、

あぁ、そういえば今週初めは色んなことがあった、その彼にまつわるラインを読んだとき、とか。

また、食べることが大好きで、特に食べるのを待ちわびている空腹時の幸せ感も物凄い。

そんな風に、ただの日常で順風満帆な気分に割となってる。

 

だけど、どこかで、「このままでいいの?」とも感じるんです。

私は、貴重な人生の、しかも若くて元気な日々を、こうして着々と、熱意を傾けられる訳でもなく、尊敬できる人達がいる訳でもない、かといってすこぶる悪条件な訳でもない職場で食いつぶしている。

なんだか焦って本なんか読んだり、自分を大事にしようとちゃんとした服や鞄を買ってお金をどんどん使ったりと、確かにあまりに嫌なことは避けられるようになってるけど、でも、「本当にこっちでよかった?」とひとつひとつの選択に対して思ってしまう。

 

そんな中で、今日、試しに自分の感覚に向き合ってみようと思って。

昔すごいモヤモヤしたり、辛くてたまらなくなった時、よくやってたやり方で。

 

まず、自分の感情を感じる。モヤモヤがおっきいなとか、なんかいや~な気分とか、感覚的なものを感覚的なりに言語化する。

ポイントは、ここで焦ったり急いだりして、感情を見るのを飛ばさないこと。初めは何も浮かばなかったり、ぴんと来なくて、「なんだこれ時間の無駄!」とイライラさえしてくることもある。私はよくなる(だから最近やれてなかった)。

でも、まぁ最悪掴めなくてもいい、位の気持ちで、ゆるっと感覚を見てみる。ここで終わっても十分。見えただけで、大きいから。

もし、何となく感覚が掴めたら、次は「なんでそう感じるんだろうね?」と解き進めてみる

ここでもポイントは、ある意味でバカになること。つまり、頭脳を下手に動かしちゃいけない。例えば、私が普段通りこう考えると、アタマの方が、感覚に相談せぬまま、どんどんと解き進めちゃう。「なんでモヤモヤしてるの?」「彼氏が海外行っちゃったからだろうな」「まぁでもしょうがないでしょ」「会社もいまいちだしね」「それは自分のせいじゃん」「あーあ、私ってなんでこんなに馬鹿なんだろう?」

バカなのはこの条件反射思考回路を垂れ流しにしつづけた点である。人間ってのはどうしても、訓練しないとネガティブに想像が膨らむ性質があるらしく、放っておくとこうしたどうでもいい、非生産的で自己否定的な思考ループにはまり易いようだ。

そこで、感覚とバディを組む必要がある。

私が今日、(自分では気づいていなかったが)かなり久しぶりに自分の感覚と向き合えたのは、「そうしよう」と決めてトライしたから。

「自分の得意分野で勉強でまたも問題を解決しようとしていたけど(例えば読書や資格受験)、それでうまくいってないんだから、苦手分野の感じることをもっと集中的にやってみよう」

そう思って、友人と別れたあとの帰り道、ひたすら自分との問答をしようとした。

途中、正直頭が違う方になんども逃げたが、苦手分野であまり経験がないのだから仕方がない。フワフワ思考に気づくたび、また感覚に集中しようとした。

その結果、驚いた。

心がすとんと落ち着いた。そしてかなり久しぶりに、ごはんを集中してひとりで食べれた。

なんだそれ、というところだと思うが、私は最近、大事だとはわかっていても、ひとりごはんのとき食事に集中できず、ながらスマホ飯が基本になっていた。

そうしないと、イライラしてたまらなくなってしまうのだ。文字にしてみるとなかなか不味い状況だなと思うが。

それが、ただただ、食べるもののおいしさに浸れる。ひとつひとつの所作もなんだか丁寧にできる。

あーー、本当に生活の基本を、気づかぬまま、蔑ろにしてたのかも、とはっとした。

 

で、私の目下の悩みはずばり、「人生どうしよう」なのであるが、とりあえずの答えが出た。

①このひとり問答をもっと集中的にやること。

(例えば、今日「明日死んだらなに後悔する?」と問答すると、「ゆでたまごをたらふく食べなかったこと」と思い浮かんだ。とりあえず思いついたまま、オリジン弁当ゆでたまごいりのおかずをたらふく食べたら、めちゃめちゃ幸せ。とりあえずこの調子で、自分の欲求を埋めていけば、いずれやりたい仕事のかたちとか暮らし方が見えてくるんじゃないか、と何となく思っている)

②「隣の芝生が青い」はいつまで経っても解消しないと納得すること。

私は想像以上にないものねだりをしていた。超ダサいくらい。超ダサい。

 

誰かに相談しても、仕事論の本をいくら読んでも、勉強して知識を詰め込んでも、自分の中で消化する時間を持たないと、何も残らないよ。

私は何にもなれないよ。

私に戻る時間を、もっともっともっともっと、取らないと。

いま、正直得意じゃないけど、いまやらないと、いつまでもできないんだから。

遠距離恋愛が始まった。

国際遠距離恋愛が一昨日くらいから始まりました。

昨日今日は、雨だし、余韻に浸ってボーッとしてた。

久しぶりにあんなに泣いた。

置いてかんでよ、一人にせんで、っていう思いが強い。

でも、お互いがお互いを大事にしてることを実感して

どこか幸せでもあった。

 

遠距離の映画をさがして、

イルマーレ」を見た。

うーん、遠距離というか、もはや次元が違うからか、

自分とは重ねなかったけど、単純に面白かった。

 

彼が帰ってくる前に、自分磨きする。

 

見た目

いま、ちょい太ってる。体脂肪率がすごい。

肌のきれいさが売りだったんだけど、毛穴が見えるようになってきてるし、乾燥がヤバい。

 

→要らんもん食べ過ぎなので、石原色健康法。

汗かかない生活を打破するため、かつ冷えとりとして、半身浴。

 

→肌が透き通る!素朴できれい!50kg台から自然に降りる(おそらく今は半ばに行きかけ/163cm)

「ほっとけないくらいきれいになったね」と言わす。ドキドキさせる。笑

 

仕事

中途半端。やりたいことがわからん。

→毎日自分とちゃんと向き合う時間をとる。

→早起き。

 

ひとまず、これで、あしたは期限を考えよう。

 

今日出来たこと

  • 半身浴
  • 控えめな食事(レタス、枝豆、枝豆えのきの玄米炊き込みごはん、豆腐)
  • 早起き(2:00笑)

 

さ、わたしえらいぞ。

どんどん素敵になるぞ!

考えすぎたら社会的じゃなくなるんだけどこれは

前提を変えることが大事だと、自己啓発本などではよく語られる。

例えば、穴の空いた袋。

自分を満たそうとして、社会的地位や優れたモノや成果を詰め込んでも、基本的な自己肯定感というベースがないと、ポロポロ落ちて何も残らない。

「自分はダメなやつだから頑張らないと」前提で生きていると、全力で頑張ってはじめて及第点が自分に出せることになり、非常に辛い。-100点から始まるわけだから、100点取るだけの努力をしても、そこでやっと0点というスタート地点に立てるわけだ。

これは、技術的ではなく精神的な話で、どれだけ出来る人でも適切な自己評価を自分に与えていなかったら、生きているのがしんどいばかりだろうということ。

自己啓発本や心理学の界隈でよく聞く。

 

私も長らく穴の空いた袋だった。

なぜか、自分がつまらないことを非常にコンプレックスに思っていた。昔、友人に、一緒にいてもつまらないなどと言われたショックもあるかと思う。

「自分はつまらんやつだから、全力で会話の相手に尽くすのが義務だ」と思い込んだ。

その前提で人と関わるのは、それはそれは苦痛だった。

自分はつまらないから積極的に話すのを避け、相手の話をうまく促す聞き方を磨いた。

それゆえに、人から聞き上手と言われるようにはなった。ただ、自分の話術は身に付かず、プレゼンの瞬発力みたいなものが欠けてるけど。

しかし、そうして生きているのが辛くて救いを求め(義務教育の場で人と関わらないのは社会的に死ぬという感覚だった。しかし、人と関わるのは苦痛だった。要は毎日苦痛)、家にあった自己啓発、カウンセリング本のたぐいを読み漁って、「私は穴が開いている麻袋」と気付いた。

そこからまぁ自分を説得しようとし、反発を受けてより辛くなり、表面上のポジティブワードで疲弊して投げ出したくなったり、を繰り返し、10年程経った今では、基本的自己肯定感の存在をなんとなく感じれるようにまでなった。

例えば、以前は話したい人と話すのも躊躇っていた。けど今は、人に話し掛けるとき「つまらない自分なんか」がとよぎることはあるものの、

「そんな自分なんだからしょうがない。つまらないと思われてもしょうがない。まぁ、私は実際大して面白くないけど、とはいえ面白いと言ってもらえる部分もあるし、その凸凹な自分のままでいいじゃないか」

という安心感を自分に思い出させることで、ふっと楽になることができる。

(文字にするとよくある言葉だけど、これを染み込ませるのにどれだけかかったか。今、自分で感動している。)

 

しかし、この「自分との対話」をしていると、心が空っぽになってしまうことに悩んでいる。

例えば、一昨日の夜、お酒の飲み過ぎで眠れず、ちょうどいいから自分の肯定感を上げる言葉を唱えようと思った。早い話が自己暗示。

しかしこれも失敗したことがあるが、「私は人とうまくやっていける」等という言葉だと、むしろ人とうまくやらなきゃと不安感が高まり、ますます人間関係への自信が持てなくなることがある。なので、ポイントは行動ではなく前提の肯定であり、「私はいるだけで爆笑の渦を巻き起こす」とか、アホみたいな言葉をチョイスするとよい。別に渦を巻き起こさなくてもいいのだ。そのくらいの言葉だと、自分は大してつまらんくもないかもしれんし、そもそもその価値基準にもそう拘らなくてもいいかもなぁ、と素朴な安心感が生まれてくるのだ。

 脱線したが、そういった言葉を心の中で唱えつつ、いい気分にもなった。しかし、その翌日、久しぶりにたくさんの人と会ったのだが、はたとどう話せばいいか分からない状態になっていることに気付いた。

おそらく、会話における自信がなくなっていた。話したいことは、「いま何か漠然と不安なんだよね」であり、いつものように話したいことが湧いてくる訳でもない。普段より「私なんかと話させてごめんね」という不安が出てくるし、飲み会もあまり喋れず、非常に空しく帰った。こんなのはかなり久しぶりだった。

 

振り返ってみると、少し考えすぎてしまったのだとも思う。また、前提を変える前の一時的なぶり返しかもしれない。

けれど、自分の中の前提って、ちゃんと考えて深掘りしてあげないと、いつまで経っても変わらないと思う。もっといえば、私はこういう状態になるのを恐れて、日頃からあまり下手に考えすぎないようにしている気もする。それは良いことではない。

だから、私は困ってしまった。思考と感覚の距離感がいまだにうまく掴めないのだ。昔はこんなどうでもいいことで疲弊してる自分に心底うんざりし、他人を羨んだけど、いったい他の人はそういうことは起こらないんだろうか。疑問だ。

しかし結局、文字にしてみると、アファメーションに失敗しただけとも思えてきた。結局不安感を煽ってしまったのか。どこかで必死になってたのかもしれない。

 

この自分との対話に費やした時間は人より長いと思うし、自分の心で自己肯定感を培ってきたということへの自信もある。

けれど、それは目に見える成果として現れさせてあげられず、就活の時にすごく悩んだし困った。

そもそも何かを頑張る以前の、自分の心を鍛えてきたつもりなんです。それは、他の人より脆く出来ていたんですが、自分のたゆまぬ努力で、一般並みの肯定感を培うことが出来たように思います。これからその下地のもとで、何にでもチャレンジし続けたいです。

そんな気分だったんだけど、就活は闇の思い出しかない。社会では必要とされてなかったのかもしれない。自分としては役に立たないっていう意識はまるでなくて、自分と向き合える人間が最強でしょうって思ってたから、あまりにもうまく行かないことに何度も絶望した。けれど、今思えば喋りが下手でバカっぽく見えてたのかもしれないし、見た目もパッとしないからとりあえず取っとこうとはならないし、中途半端な動機と成果しかなかったから、まぁしょうがなかったんだろう。渦中にいると消えたくなるけど。

 

脱線したけど、まぁ、人とうまくいかない不安状態に久しぶりになったから、うんざりして書いてしまった。

何でこんな繊細に出来てしまったんだ私の心、納得してるけどちょっとしきれない。すごい損してる気がするもん。

けれど、時間が経てば持ち直してくることも知ってるから、考えすぎずに意識のうわべを漂流するしかない。考えすぎると自分責めやすいし、ろくなことない。

とりあえず人と会うために、シャワー浴びてくるかな。

死を思うこと

早く何かを始めなきゃと焦っている。

何かを追うのは好きだ。

目標があれば、及第点はとれる(テストの話。

でも、何かが、ハッキリしない。

怖いから、通勤時間も耳に栓をして

Audibleで色んな名著やらを聞いている。

ビジネス本も読んでみたり。

みんな名著を読めという。

 

私は就活で納得できる結果が出せなかった

必死で目指してたわけもないけど

なんとなくいけると思ってた業界ですべって

知らないなんとなくの会社に入った

大手がいいではなく、やりたいことができれば

もっといえば、やっていてある程度気持ちよければ

自分の特質(ボーッとしがちで目標に合理的に近付くのは得意だけど、目標設定が苦手、声が小さくて、個別で話し込むのが好きとか

にある程度沿っていればよかった

この社会では、物凄く好きななにかがあって

それをやりこんだ人が尊敬されるらしかった

絵を描くのは好きで賞も取った

心理学も好きでセミナーとか内観も行った

知的好奇心はあって勉強はそんなに苦にならない

っていう、自分の使い道に困っていて

たぶんさっさとこれと決めて追求しないと

どこにも行けずに死ぬんだろうと思っていて

でも、「死を思え」ない

思えないは言い訳かな、そんな必死で思ってもないかな

どこかで、私が真剣に

いつか死ぬと腑に落ちたら頑張れるのか、

あーこれ完全に「俺はまだ本気出していないだけ」か

 

行くべき方向はずっとかんがえ続けて

初めて浮かぶものなのかな

しょうもないまま死にたくないな